■ レース参戦・スポーツ走行など
先月行われたMCFAJ第6戦 OFVの動画を見つけました。
trurmonkyさんありがとうございます。E450のスタートシーンは#90さんを撮っていると思われますが私の動きが分りやすかったので載せてみました。
'>80年代から同じ方法でやってきたスタート術です。背中が赤いジャージが私。
ポイントは0:23あたりを参照ください。バーが倒れる前にリヤタイヤから土埃が上がっていますね。
ここのスタートグリッドは後側にH鋼のタイヤ止めが設置されているので、後方から早めに出ることが出来なくなっています。そこで、バーが動き出してから倒れる直前を狙ってクラッチミートをします。バーが倒れてから反応しても出遅れてしまうのです。
私の場合はバーが地面に落ちる前にフロントを上げてクリアさせていきます。意図的にウイリー状態を作っているので体が遅れることはありません。後はトラクションに集中するためマシンの垂直を保ちながら体重移動してリヤ荷重に移行していきます。
旧型マシンでも真っ直ぐだけなら結構速いですね。問題はコーナーが遅いので1コーナーの処理が悪く2コーナーまでの直線で2台抜かれてしまいました。
9月のレースは走る予定なので、それまで課題を持って練習したいと思います。
泣く子もだまる(そんなわけない)国際B級(掃いて捨てるほどいる)時代の私。
マシンは我社(前の勤め先)で製造したCR250R、88モデル
コースは成田エアポートMXランド。
ジュニア時代、87年全日本MX第1戦桶川大会の予選1組。
マディーの予選を制したのは私。最も勢いのあった頃だった。
スタートを正面から見た様子。既に1コーナーへ向けて最短コースへ加速している。
マディでトラクションさせる能力に秀でていたに違いない。
ジュニア125クラス決勝は残念ながら転倒で16位に終わってしまったが
MXキャリアの中で最も充実していた時期なので忘れることはできない。
狭山レーシングのエース、井本敬介選手。87年は国際A級2年目
この年の前期は全員125ccでのレースだった。
朝霞研究所、第2研究ブロック操安グループに席を置き後にCRFシリーズの開発責任者になられた。
奥にチームグリーンの岡部篤史、長沼朝之、隣に無限の鶴田忍の姿が見える。
市販CRでワークスライダーに引けをとらない堂々とした走りだった。
井本氏の指導がなければ私の国際B昇格も無かったかもしれない。
84年関東選手権、予選10組時代。あの頃はとにかく必死だった。
予選を通過しないことには決勝は走れぬ。
あの頃の経験があったからこそ、今の自分がある。モトクロス最高!
松山オートテックは愛媛県松山市の山中にあるMXコースで、県民の水瓶「石手川ダム」をさらに山奥へ進むと、瀬戸内海が広がる絶景の山の尾根の部分を切り崩したMX場が現れる。
ゴルフ場も隣接しているのでコースまでの道路は完全舗装された環境のよさ。当時のMXファンなら五明(ごみょう)という地名で知られている、そのコースは通称パチ台と呼ばれていて
コースの一番低い位置にスタートとフィニッシュジャンプがあり、高低差100mくらいの斜面を一気に上ってからパチンコ台のようにクネクネとバンクのついたタイトコーナーを曲がりながら下ってくるので
下からコースの状態が80%くらい見えるので観戦しやすいコースだった。
松の木の山林に黄色い山砂のコースは日本のMXコースの中でも一番美しかっただろう。
そしてカワサキ ダートクルニクルスの記事を読んでいて懐かしく思った。
チームグリーンの平井監督の話だったが、最初に育てたA級ライダーは中深迫正と菅原義広。
その前にチームグリーンとして成功したのがスーパーノービス調所伸一と鈴木南平だったことを
平井監督が語っている。
そして、その舞台が全日本四国大会の松山オートテック、83年のレースだった。
コースの一番高いストレートが終わった左コーナーの向こうは青い瀬戸内海が見えるはずだが
ライダーにはそんな景色は目に入らない、バンクのコーナーを立ち上がったら、菅生の大坂より長い下りジャンプが待っているからだ。
そのジャンプを最初に飛び出してきたのが、調所伸一と鈴木南平のカワサキだったわけだ。
私も鮮明に覚えている。現地には行っていないがライディングスポーツ誌の見開き2ページを飾った写真が、その場面だったからだ。
調所選手の逸話は、桶川のレースで優勝したあと、「フロントフォークがいつもと違う」と言ったので
フロントフォークをばらしたら、片方のフォークにオイルが入ってなかったという話。
片方のオイルがなくても勝てるくらい速かったということだ。
鈴木選手はバイクランドジャパンの御子息、木更津サーキット(イーストバレー)や飯倉スポーツランドも経営していた、あの鈴木さんである。
2人は早くMXに見切りをつけて別の道に進んだと聞いたが、ワークスライダー養成チームとしてのチームグリーンの活躍の原点は彼らだったに違いない。
ハンチング帽にサングラス姿の平井監督は全日本MXの名物となっていた。そんな平井監督と私は一言だけ会話したことがある。
86年の国際B級ゼッケン2はクレイジー安藤さんだ。
安藤さんは石神覚さんのポイントワンに所属していたころから狭山レーシングと縁があり、
カワサキに乗り換えてジュニアライダースに所属してからも、狭山のトラックで全日本遠征していた。
菅生の全日本のときB級の予選でサインエリアにいたとき、平井監督が私に「安藤は予選通過したかー」と尋ねられた。「ハイ、通過しました!」 たったこれだけだが忘れられない。
国際Aは私にとって神様だ、そして監督は神様を育てている創造神なのだ。
安藤さんは前年、カワサキに乗り換えて鈴鹿で4位に入った。申請すればA級昇格できたのだが
「申請A級はインチキだ」と言って翌年、優勝するつもりでいたのに成績不振で折れてしまったのだ。
平井監督はカワサキに乗って速かった安藤さんにも期待をかけていたのだろう。
話は逸れてしまったが
松山オートテックは85年、先輩の井本さんがB級ゼッケン9の年に全日本四国大会として最後のレースを開催した。
その日のマーシャルは四国のトップライダー三原達夫。
国際Bの公式練習は三原選手と井本選手の一騎打ちだった。
四国選手権のトップライダーの松山でのスピードを見せ付けたいという思いと
一桁ゼッケンが田舎B級に負けてはいけないというプライドが、走りに表れていた。
そして、三原選手の御子息は後にチームグリーンへ入るほど成長し、親の意思を継いだと思われる。
その選手の名前は三原拓也、四国で8番目の国際A級ライダーとなった。
A級250でヒート優勝したのがMX界1のイケメン立脇三樹夫選手だったのが印象的だった。
その後はゴルフ場建設予定地になってしまい閉鎖したと聞いている。
1980年香川県丸亀市の特設会場。瀬戸大橋もまだ出来てないころ
学生だった私は四国選手権でこのコースを走った覚えがある。
同年の全日本も日曜だけ観戦した。
当時はA級のレースは土曜日125クラス40分+2周2ヒート、日曜日250クラス40分プラス2周2ヒート。日本のMX史上最強のレース内容だったのではないか。
日曜の朝、会場に着いたら海岸のパドックにゼッケン#3福本車のRC125が優勝したということで展示されていたのを鮮明に覚えている。
23歳の東福寺さんが#7でヤマハファクトリーなんて今モトクロス観にきている人はどれだけ知っているんだろうか?
丸亀製麺で懐かしい貴重な記事を見つけたので勝手に拝借です。