■ クラシックバイク
長期滞留車の集中業務が続いております。去年11月から第4弾になります。
空冷エンジンのDT125は以前ノーマルベースのチャンバーを作りましたが、今回は79年型YZ125と同スペックで製作依頼を受けました。
YZスペックでDTに取り付くように専用型作るのですが
当時のYZ125チャンバーは左出しに対してDTは右出しなので対照になっています。
最初は取り付くかどうかわからないので
同等のカーブで作ってみましたが、車体が小さいことと、フレーム中通しのレイアウトが取り回しを困難にしました。
タンク下のクリアランスはこのとおり1センチくらいです。
この位置を下げるためにはエキパイのカーブを大幅変更するしかありません。
今回は走行性能のチェックが主目的だと思いますのでこのままいきます。
フレーム中通しのテールパイプに苦しめられました。
サイレンサーはノーマルパイプがつく位置になっています。
カンチレバーのショックユニットが真ん中にありますので、ショックを避けるカーブが複雑になりました。
全く実績のない組み合わせなので試乗してみます。
インプレッションは元国際田舎B級の私が勤めさせていただきます。
トレール車にレーサーのチャンバーつけただけではレーサーのエンジンにはならないだろうと思っていました。
それはノーマルの最高出力が8000rpmで発生に対してYZは11000rpmで発生すること、カタログ上の馬力は10馬力も差があることから、ポート形状やクランクが別物なのだろうと考えられたからです。
まず、3ヶ月も放置した割りにチョーク引いてキック一発で始動しました。軽く暖気してから走りだしますが、分離給油の混合比が濃いのか白煙を吐き出しながら走ります。一般道では5000rpmくらいで巡航できますので、全くパワー感がありません。6000rpm付近まではノーマルベースの方が力強く、走りやすかったです。
ところが7000rpmを超えた付近から豹変します。8000からレッドゾーンのタコメーターを11000まで一気に振り切りました。この加速でフロントも浮いてきます。相当スピードも出ますし、市街地では危ないでしょう。しかし交通の流れに乗った状態ではパワーバンドに入らず、つまらない特性なので走る場所を選ぶ必要があるでしょう。
ノーマルポートでこの変貌ぶりだとキャブレターもいじっていけばレーサー並みに走ると思いますが、乗りやすさとは別ですから、オーナーの判断に委ねることにします。
先月お台場で開催された「旧車天国」に行ってきた弊社取材班が貴重なDVDを購入してきましたので紹介します。
去年暮れに日本のモーターサイクルレース発祥地(1910年)である上野公園不忍池へいってきましたが、そのレース主催団体「東京モーターサイクル倶楽部」に関するビデオ(八重洲出版制作)です。1909年(明治42)東京神田で創業の輸入オートバイ店山田輪盛館の創業者、山田光重氏が主催者でした。
同社は日本高速機関という会社を設立して国産初の高級自動自転車ホスクを1954年(昭和29)にデビューさせたのでした。
ホスクNKBA、4スト200cc 7ps/6000rpm
17万5000円、当時東京都民の平均年収10万円だったそうです。
ヤマハ初の4ストエンジン車が1970年発売のXS1ですから、最初から4ストロークエンジンに着手した同社の技術力の高さが伺えます。
1956年(昭和31)製造の500DBS
輸入車に引けをとらないスタイリングのオートバイ製造を成し遂げたことで、唯の輸入オートバイ店から2輪メーカーへ完全に転身したといえます。
ホイールにはアルミリムを奢っています。
この500DBSは1957年(昭和32)第2回浅間火山レースでセニア500ccクラス3位入賞しました。
ゼッケン55がホスクに乗った井上武蔵選手。
日本初のモーターサイクル競技団体、東京モーターサイクル倶楽部のメンバー
前列右から2人目の髭を生やした紳士が創設者山田光重氏、。
隣のチョッキ着用の人が1930年(昭和5年)にマン島TTレースに参戦してベロセットに乗って350ccクラス15位の結果を残した多田健蔵氏。
1930年当時英国車ベロセットは1500円で販売されたそうで、モーターサイクルの輸入税93円60銭は東京のサラリーマン月収に等しかったそうです。輸入車は普通の住宅並みの値段だったようです。
東京MC倶楽部主催のダートレースが月島や王子あたりで盛んに行われたそうで
これは多田健蔵選手の映像の一コマ。
この時代のアマチュアレースが土台となり1950年(昭和25)に船橋で現在のオートレースが開催されるようになったそうです。
人柄の良さそうな多田さん。
ベロセットのロゴをあしらえたトレーナーがカッコいいです。
オートレースはダートコースで行われていました。
見事な逆ハンです。当時のダート走行テクニックは今以上ではなかったかと映像が教えてくれます。
お客さんを連れて箱根、熱海方面へ遠乗会も主催されたようで富裕層の道楽的要素が強かったみたいです。
ここは箱根の登坂路で休憩中です。
時々エンジンを休めないとオーバーヒートしてしまうのです。
路面は当然ダートしかありません。酷いデコボコ道にリヤサスはリジッドですから相当に体力が必要だったでしょう。
ガソリンスタンドは充分にあったでしょうか、尺貫法時代に「ガソリン一升」とか言って頼んだでしょうか。
大正時代の映像と思いますが非常に鮮明に撮れているばかりか、車載カメラで動画を撮っている場面があることに驚きます。ヤマリンの山田さんは輸入オートバイ店かカメラ店を営むか悩んだくらいのカメラマニアだったことがこれらの撮影技術に役立ったみたいです。
フィルムは東映の倉庫に埋もれて行方不明になっていたものを偶然発見して損傷の激しかったものを現在のデジタル再生技術で蘇らせたこともDVDの中に載っていました。
本当に奇跡の映像だと思いますし、これに出会ったことも運命であったことを感じます。
1959年(昭和34)製造のホスクDBTスーパースポーツ。
HOSK最後のモデルとなりました。初生産から14年、創業から59年を経て山田輪盛館の歴史は幕を閉じるのであります。
会社は沼津の昌和製作所に移譲されヤマハ発動機の傘下に入って技術は継承されたということです。
さて、本題に入ります。古い記録映画を唯娯楽のために観ていたわけではありません。
自分の親たちも含めて大人は子供に対して大事なことを伝えていないと思うのです。よその家のことは分かりませんが少なくとも私の経験ではそうです。おそらく子供が何を知りたいか、将来のために何が必要かということを大人と言えども、その日その日が精一杯で分からなかったかもしれません。
私自身が半世紀も生きてきて、ようやく知りたいと思うことが少しだけ見えてきた感じがします。いままでは会社や世間の風潮などに流されてきただけで、物事の真理など殆ど分からずに生きてきたと思います。私が生まれたときには、明治生まれの祖父母は既に他界していたのですから昔の話は聞けません。先祖の経験談も聞けないのですから他人の話など知る由もありません。
日本のモーターサイクル史も同様です。雑誌の記事を読む以外に手段がありません。しかし、現在やっていること、これからの方向性を見極めるためには過去のことを知らなければ判断の材料がないではありませんか。
日本という国家でさえ過去に何度も過ちを犯していますね。大きなところでは2度の大戦と原発政策。大きな過ちですから取り返しのつかないことになってしまいましたが、これらは過去に経験の無かったことですから失敗の予測がつかなかった事例です。おそらく、これからは同じ失敗は犯さないでしょう。経験したのでどうなるか知っていますからね。
また、斬新な発想や感性は利益が見込めなければ切り捨てられるのが今の大企業の体質だといえます。だから自分はトラディショナルな過去のモデルを探しながら、もうすぐ老後を迎える自分のスタイルを構築していきたいと思います。
欧米人はリトルトライアンフと呼ぶそうです。なるほどバーチカルツインのシリンダーが見る角度によってはトライアンフボンネビルに似ています。
スーパースポーツは必要ありません。一般道では性能を引き出して走ることが危険だからです。
2輪車は交通の手段ですから家から乗っていけることが望ましいです。トランポで運搬しなければならないレーサーも不経済な乗り物です。
そんな当たり前のことを思って乗ってみることにしました、1976年型CJ360Tです。私が中学2年生ころに製造された車です。今でもこんなコンディションで残っていることが奇跡だと思いました。
76年当時ホンダのロードスポーツはカフェレーサースタイルのシリーズをラインナップしていました、CB50JX、CJ250、360T、CB400F、CB750F2です。
しかし、ヒットしたのは400Fだけで、その他は不人気車種としてのレッテルを貼られましたが、そのことがこの車の希少性を高める要因となったわけです。
何年か前に近所のガソリンスタンドに74年型CB250Tが給油しているところを見かけて衝撃を受けました。
何故ならCB250Tは私が15歳のときに新聞配達のアルバイトで初めて買ったオートバイだったからです。中古で8万円でした。ン、15歳?と思われるかもしれませんが、免許を取るより先に買ってしまったわけです。当然親には内緒でしたが、交通違反で捕まって直ぐにバレてしまったので泣く泣く手離しました。それだからこのバチカルツインには思い入れが他人より深いのです。しかも250Tの兄貴分の360Tですから、これに出会ったときは絶対に手に入れて再び手離すことのないように大事に乗ってやろうと思いました。
輸入部品商のホーリーエクイップさんの商品カタログで見つけたときはこの機会を逃したら一生ないかもしれないと思って即連絡を入れて、他の物好きが買ってしまわないうちに仕事をサボって奈良県まで引き取りに行ってきた次第です。
リトル虎慰安婦(失礼!)
いい響きです。
あまりカスタムしないでノーマルのフォルムを維持していきます。
お金の掛かった旧車のカスタムバイクをよく見かけますが、この車においてはカスタムはしません。
フロントのドラムブレーキは輸出仕様ですがディスクよりドラムのほうがこのタイプの車には似合っていると思います。
新しい部品に換わっているとダサく感じてしまいます。ビンテージだから当時品にこだわるということです。マフラー屋だからマフラーだけ作っていい音させたいとは思っていますけどね。
エキパイの鍍金が仕上がりましたので、マフラー製作の続きです。
今日はマフラーのジョイント部分とマウントステー作りに取り掛かります。
見本は量産品ですから、全て金型を用いてプレス成型により作られたものです。
量産は少なくとも千個ロットの生産だったでしょう。マウントブラケットなどは下請けのプレス工場などに外注して大量生産して安価に作られたものです。
しかし、当方には金型などありません。見本の形状を真似て成形するしかありません。充分な予算をいただいてあれば安心して立派なものを作れるのですが大概の部品は製作に費やした時間分の全てを請求するわけにはまいりません。それは、必要な生産設備が無い上に初めて成形する部品であるために、長時間を要するためです。
これはジョイント部分ですが、非常に凝った形状であります。
ボルトを差し込む部分が袋状になっており、左右で4個のフクロを作って溶接で取り付けしてありますが、この部分だけで半日費やしています。
これができれば、エキパイにマフラーを差し込んで、位置決めに掛かれます。
メガホンの溶接ビードは全て消してあります。
溶接のまま研磨屋に出しますと、ピンホールやハンマー痕などが残ってしまって、鍍金の仕上がりに影響してしまうため、研磨の下地はこちらで整えておかなければなりません。
研磨は全てお任せでは、上手く仕上がってこないことが分りました。
ちょっとユニークな形状のマウントブラケットです。
上は見本ですが、なるべくノーマルのデザインを崩さないように真似ています。
締め付け面の凹ましが必要なので、イレギュラーな方法で鉄板を成形してみました。
鉄板はなかなか、言うことを聞いてくれません。
なんとかマウントブラケットの成形ができたので、左右マフラーの取り付け位置を確認しながら溶接しました。
あとはエンジン下側に付けるマウントステーが残っていますが、今日はここまで。
明日、最後のステー取り付けを行って研磨屋に持っていく段取りが整うはずです。
日付が変わって、エンジン下部に取りつけるマウントステーを作って溶接しました。
2枚合わせのステーですが、これも純正になるべく似せて作ってあります。
純正に似せる理由は、それ単品で見るとオリジナルだと思わせるようにしなければならないからです。
復刻されない希少なパーツを新品で再現するということは、旧車の維持には不可欠なことで、商業的に利益を得る目的の「偽物ブランド」とは全く次元の違う話だと思います。
オリジナルと再現品を並べてみます。
B級マフラーと思いますが、大体同じ形状に出来ているでしょう。
鍍金が仕上がってきて、ピカピカになれば、素人さんならどちらが本物か見分けがつかないと思います。
これで私の作業は終わり、研磨屋に持っていってカネを払ってくるだけです。
ここまでエキパイと合わせて10日ほど掛かりましたが、一段落ということで会社なんかだと祝杯を上げたりするでしょうが、私にはあのような発酵した水など飲んだら気持ち悪くなってしまうので祝杯は上げません。そのかわり、気持ちよくなる音楽でも聴くとしましょう。
スパイロ・ジャイラのモーニングダンス。ものすごく爽やかな気分になります。寒気が来ていますので気分だけでもトロピカルでいきましょう!サンキュー、Mrベッケンスタイン(SAX)
'>1979年リリースの楽曲ですから、34年も経つのですね。カセットテープが擦り切れるほど聴いていましたが、何年経ってもエエモンはエエ!
9月のもてぎでお預かりしたCB92のマフラーに着手です。オーナーの沖さんは小樽在住ですが、1月に群馬のスキー場へ来られる情報をお聞きしていたのに間に合いませんでした。次回は4月のイベントで埼玉へ来られるそうなので、猶予ができました。今から取りかかれば充分間に合うでしょう。
完全オリジナルのCB92です。保管には細心の注意を配ります。
何年か前から北野元選手が浅間火山レースで優勝したマシンを入手してレストア中であることを聞いていましたので、2輪史に関る大事な仕事であると思います。
北野さんは関東では有名で、4輪のレースドライバーに転向して、板橋の川越街道沿いにあったロードレースの宋利光さんの店「アパッチ」の隣でタイヤショップを営んでおられました。
託されたマフラー一式ですが、図面もありませんので、この現物を見本に同型のものを作らねばなりません。
具体的にマジマジと眺めてみると型物が随所に使われていて、ハンドワークで再現するのが難しいように思われます。
しかし、私には19年も何の道具も持たないで、「無いものは造ればよい」という信念でやってきた経験があります。
緩いカーブを描いたエキパイは3次元に曲がっているのが分ります。
メーカーさんは機械ベンダーで曲げRと角度を設定して曲げていますが、私には曲げ機械はありません。手曲げで再現するには職人技を発揮する必要があるでしょう。
マフラーのマウントステー部分の構成パーツが意外と多いことに気づきました。
おそらくこの部分の作り込みが半分くらいのウエートを占めると思います。
2枚の板の接合部はスポット溶接が用いられていますが、スポット溶接機もありません。この部分はプラグ溶接かTIG溶接で取り付けさせていただきますのでお許しください。
では製作の進行状況は随時アップすることにいたします。
2輪史について、何のことだか分らない人も多いかもしれません。最近のことだけ見ていると全体像は見えてきませんが、MX、ロードレース、ストリート、クラシック、改造バイク、一通りのカテゴリーを掻い摘んで見てきました。2輪車という乗り物は、およそ100年前の原点から始まり、研究開発が進んで新材料、新製法、新機構が世の中にリリースされ、お金を払えば誰でも堪能できる便利な時代になったと思っています。
しかし、この先100年同じように開発が進んでいくとは思えません。それは資源や環境の問題であったり人間の欲求の矛先であったり、残る部分と衰退していく部分が当然でてくるでしょう。今の繁栄は期間限定の楽しみと捉えてよいかもしれません。そのことを考えると、一見時代遅れに見えるようなことに魅力や価値観を見出していく懐古主義を営んでいくために手作り製法も、残された人生を豊かに(お金じゃないですよ)過ごしていくために有意義なことだと思って働いています。
通常はテーパーに削った鉄棒に鉄板を巻きつけながら作りますが、これは端材も含めて1m以上の長さがありますので巻いて作るのは難しいと考え、水押しで膨らますことにしました。
2枚の鉄板を展開図に従って切断し、溶接で張り合わせます。
今回は厚さ1mmの鉄板を使用しますが、成型後に溶接ビードは研磨して消してしまうため、通常より溶け込みを深く溶接しておきます。
製品の長さが77mmありますので、CB92のシートより少し高いです。
マフラーの長さは排気の脈動を利用して燃焼室の充填効率を高める効果がありますので、ノーマル寸法を守る必要があります。
旧車の場合はオリジナルに忠実な外観も必要なので、自分の意思は入れず同じように成型することに没頭するだけです。
メガホンのエンド部分にはテーパーリングを溶接します。後で研磨して溶接ビードは消します。
テーパー状の絞りは排気の抜け過ぎを抑え、反射を起こすための形状です。
50年前からこのようなチューニングの技法が確立されていたのですね。
メガホンの加工はここで一旦停止です。先にエキパイの製作に掛からねばなりません。
その理由は、クローム鍍金仕上げ によってパイプジョイント部の外径が大きくなってマフラーが差し込めなくなるためです。
ラインナップ品のチャンバーなどはテールパイプのジョイント部をマスキングして、鍍金が付かないようにして対応していますが、CB92のエキパイは端まで鍍金されていますので、鍍金後の外径寸法にあわせてマフラージョイントを加工する段取りになります。
先ずは見本のエキパイから曲げゲージを作ります。左右対称ですが、3次元曲げなので両方のゲージが必要です。
炙り加減と力を入れるタイミングは100%勘だけが頼りの手曲げです。
複合Rの距離が近いため、このカーブを成型するには高級な機械ベンダーが必要でしょう。
パーツメーカーさんならCNC加工機により高精度な仕上がりを実現します、というところですが、ここでは無縁の世界です。
先日作っておいたメガホンマフラーを仮止めして左右のバランスを見ます。
マフラーの位置が問題なければ、エキパイの加工は完了です。
このあとエキパイだけ鍍金処理に廻りますので、それまでマフラーの加工は中断します。
次の仕事が控えておりますので、続編は2週間後ということで。
11月25日所沢の航空発祥記念館の前に2台のコンテナに載せられて展示用の航空機が運ばれてきました。アメリカのPOF(航空博物館)所有の現存する飛行可能な唯一機の零式戦闘機の来日です。
コンテナの1台はエンジンと主翼、機体前半分。もう1台は機体後ろ半分を積載しており、展示場の前で降ろされ、組み立てられました。組み上がった機体でエンジン始動確認後、格納庫である展示場に納められた実物を同館にて3月末まで一般公開されています。
同機の正式名称は海軍零式艦上戦闘機五二型と呼びます。1944年6月にサイパン島で米国海兵隊に無傷の状態で捕獲されて民間に払い下げられたそうです。
通称ゼロ戦ともいいますが、実戦終了から70年近く経っても、おそらく日本人で知らない者はいないと思われるほど有名な飛行機ですが、その実物を目の当たりにできる貴重なチャンスを逃すわけにはいきません。
私の注目するべき目的は二つ、当時最速と言われたエンジンと超々ジュラルミン製の機体です。
群馬県太田にあった中島飛行機製の栄二一型エンジン。
14気筒星型エンジンは1100HPで最高速度564.9km/h、航続距離1920kmというスペックです。
装甲板や防弾ガラスを持たない攻撃専用の機体が設計の思想を表しています。防護能力の無い機体はグラマンに狙われて被弾したなら助からないことを意味します。助かるためには戦闘に勝つしかありませんでした。総重量1800kgという軽さと高出力エンジンのおかげでラバウル島からガダルカナル島の片道1040kmも楽々飛行して戦闘できたという驚異の航続距離を誇っていました。
中島飛行機の技術者は敗戦後7年間航空機の開発を禁止されたこともあり、富士重工に移動して自動車の開発者として貢献したといわれます。チューニングで有名なPOPヨシムラ氏も中島飛行機の整備士であったことは有名ですね。
リンドバーグが大西洋横断飛行に成功したのは1927年ですが、ライト兄弟の初飛行は1903年ということですから航空機の歴史は正に100年、自動車の方が少し長いですがオートバイよりは歴史が長いのです。しかも日本の航空機技術が第二次大戦まで世界最高水準であったことも興味深い史実だと思います。
機体の全容が目の当たりにできますので板金の手法が想像できます。この様な機体を戦時中に一万機以上も製造した能力に感心します。機体の設計者は三菱重工の堀越二郎氏ということで、日本初の旅客機YS11も同氏の設計です。
空気抵抗の少ない流線型の機体が戦闘能力の高さに貢献したわけですが、低燃費で高速で飛行できる現代の航空技術の基礎になっていることも伺えます。
視認性を重視した立ち上がった風防の中で搭乗員一名の兵隊さんが、どのような気持ちで空中戦を戦っていたかということを思うと同情と尊敬で胸が締め付けられるような気持ちになりますが、ゼロ戦の搭乗員は何千人もの航空士官学校のなかでも25名ほどしか選ばれない精鋭だったということで、撃墜戦死された人意外は終戦後も生き延びられたということが幸いです。
館内は他にも展示物が多く、一日で観るには時間が足りません。
これはヘリコプターのエンジン部分です。
カーチス・ライト製10気筒星型エンジンです。エキパイが集合になっているのが面白いですね。サイレンサーは勿論ありません、すごい爆音がするでしょうね。
旧式のエンジンはレシプロが多いですがタービンシャフトエンジンもあって基本的に空冷ですが排気温度を冷却するためにエタノールと水をタービン内に噴射するなど、ガソリンエンジンには無い技術も解説されていて興味深いです。長いこと生きておりますと色々なことがあって面白いですね。
観覧中の親子の会話が気になりました。5歳くらいの男子と40前後の父親でした。
父「この飛行機でアメリカと戦ったんだ」 男子「どっちが勝ったの?」
父「日本は負けたんだよ」 男子「・・・・・」
男子の思ったことは想像に任せるしかありません。ヒーローは戦いに勝つものです。負けた方が悪者だと思うでしょう。この子は日本が負けた、イコール日本が悪かったのだろうかと思ったでしょう。
勿論悪かったのは軍部であって国民が悪かったわけではありません。または、こう思ったでしょう。
「負けたのにどうして日本は平和なんだろう」
その答えは、何十万人の民間人と兵隊が犠牲になって間違いに気が付いたおかげで、日本は戦争に参加しなくて良い国に変わったからです。
もし、あの戦争で勝っていたなら、軍隊は今でも存続していたでしょう。
私らの年代の親たちがギリギリ戦争体験者です。少し下の世代になると身内に体験者がいなくなります。実際に起こったことを伝えられる人が段々いなくなることを危惧します。
そんな戦争体験者が綴った書物が出版されていますが、私の心に残っているのは、特攻に出撃して生還した兵士の話です。非常に偶然が重なって、撃墜されて海に落ちた際、爆弾が爆発せずに助かり米軍に助けられ捕虜になったそうです。引き上げられた艦上で米兵は親切に濡れた軍服を乾かしてくれたり食事を与えてくれたりしたそうです。
その時に尋問役の米兵が日本語で「私たちは人を人として扱わない人種と戦っているのです。私たちは人を人として扱います」と言ったそうです。真珠湾に奇襲攻撃を掛けて勝てると思った軍部の間違いは、最初から結果の分っている戦いを仕掛けたということでした。多大な犠牲を払って安全になった国で生きていける幸運はいかなる歴史の下に築かれたものかを伝えていくことが必要だと感じます。
実際に出撃した人たちは大正生まれの若者です。終戦時に19歳から33歳の人が大正生まれですから、戦争体験者の生存数が段々少なくなっているのです。私の父親は15歳で終戦を迎えましたが住友重機の軍需工場に学徒動員で、銃弾や飛行機の車輪を収納するモーターなどを旋盤加工する仕事をしていたそうですが、自宅にラジオが無かったために終戦を知らず朝、工場に出勤したら上官から「戦争は終わったから帰っていいよ」と言われたそうです。
そんなことも聞かされたのは最近のことで、貴重な体験も聞こえなくなることが惜しまれるわけです。
そういうわけで零式戦闘機は歴史の証拠として、飛べなくなっても保存して後世に伝えていってほしいものです。
グッドオールデイズの日にお預かりしたマシン1台。1959年型CB92です。
発売と同年の浅間火山レースのライトウエイトクラスで18歳の少年、北野元選手がワークスレーサーたちを抑えて優勝したことにより人気を博したモデル。
64年まで15000台ほど生産されたそうで、今でも世界中にこの希少なマシンを保存しようとする人たちが大勢おられます。
オーナーの沖さんもそんなエンスージアストの1人です。
お預かりした目的は、この車両に装着されたレース用マフラーのレストアのためです。
なかなか北海道から持ってこられるのは大変で、もてぎのイベント会場で待ち合わせて実現しましたので、納期も来年年明けくらいで良いそうです。
実は、北野選手が浅間で乗ったマシンを沖さんがレストア中で損傷の激しいマフラーの部分を私に託していただきました。
車体はこれと同型式なので治具代わりというわけですが、綺麗な車体で取り扱いは厳重注意ということになります。
マン島TTレースを走った谷口尚巳さんのサインがサイドカバーに書かれています。
やはり自分の青春時代のオートバイは忘れられない思い出があるのでしょう。
世の中がどのように変化しようとも、その時代を生きた証としてオートバイがなくてはならない存在なのだと感じます。
通称ドクロタンクとよばれるニーグリップが絞られたデザインのタンクはアルミ製。
大径ドラムブレーキのホイールハブはマグネシウム製。
実用車のようなボトムリンク式サスペンションやニーグリップのラバーなど当時の雰囲気満点のスタイルですが、ホンダとして最初のスポーツモデルなのであります。
割りと単純な形状と思われがちなメガホンマフラーですが、実は非常に難しいのです。
なにしろ全長70mmものテーパーですから手で巻くのは殆ど不可能でしょう。
エキパイも排気ポートが外向きなのにエンジン下部で車体と平行になる3次元曲げが必要となりますので、高度な手曲げテクニックがないと難しいでしょう。
ちょっと先の作業になりますが今から思案中というところです。
後日マフラー製作レポートすることにします。
CR誕生50周年ということで世界初のCRミーティングがツインリンクもてぎで開催されました。
CRとはカブレーシングの略称で、クラブマンレース出場に合わせて製造された市販ロードモデルの車名に使われました。今年はツインリンクもてぎ開業15周年ですが、インディー撤退ということで早くもオーバルコースは使用休止になってしまいましたが、スズカサーキットと並び、国際レーシングコースとしての設備の豪華さには圧倒されます。企業の収益で一般参加できる施設にこれだけ還元したメーカーは他には無いと思います。
CR110レーサー。
50ccクラスの市販レーサーです。
私も本物はもてぎでしか見たことがありません。
珍しいマシンも多数展示されていました。
クライドラー50ccレーサー。オートバイ雑誌でしか見たことがなかったので驚きの光景です。
生憎の雨がサーキットに打ちつけるコンディションでしたが、この日のためか日ごろからマシン作りに精を出されて、惜しげもなく雨のロードに走りだしていきました。
車両展示とレース形式の走行会で多くの自慢のレーサーを披露されていて、只ならぬ情熱を感じます。
AJSですかね。
このマシンに代表されるようにエントラントも私らより年配の50代、60代の人たちが多かったように見えました。
若者抜きで遊ぶと言うか、若い者には無い老練さがここにはありました。
こんなマシンも実動なのが驚異です。
このイベントの目玉はRC146とRC149のデモンストレーション走行でしたが、豪雨のため残念ながら中止となってしまいました。
そのかわりパドック内でエンジン始動して19000rpmのサウンドを聞かせていただきました。
146は125cc4気筒、149は125cc5気筒で最高出力35PSを20500rpmで発揮するそうです。
展示車はL・タベリが乗った優勝マシンです。
デモ走行担当する予定だった宮城さんと菱木さん。
今回は空ぶかし担当でした。
11000rpm以下ではエンジンストールしてしまうためアクセルワークはシビアだということです。
最高回転はエンジンを守るために控えて19000rpmまで回していただきましたが
F1に似た甲高いサウンドでしびれました。貴重な体験だと思います。
小樽から参加の沖さんの愛車SS50です。このマシンを故隅谷守男さんが売って欲しいと頼んだそうですが、売ってあげなかったというほど貴重な物です。
雨の中奥さんがサーキット体験走行されたはずですが無事だったでしょうか。
この日のために峠で練習されてきたそうです。
このクルマ、新車購入のまま、何も変更されてないそうで、40年以上この外観を維持し続けているという奇跡の逸品です。
グッドオールデイズの参加車両は私の年齢(49歳)をもってしても見たことがない物が多く、仕事柄、古いマシンのマフラー製作も頼まれることがありますので、実物を目に焼き付けておく絶好の機会なのであります。
ワンオフ製作のチャンバーを希望されるお客さんは次のことに、ご注意ください。
製作したいチャンバーの寸法図、または見本が無い場合はお引き受けできません。チャンバーの諸元はエンジンの仕様と密接な関係がありますので、車種毎に専用設計になっています。寸法図が提示されない場合は新規に設計しなければなりませんが、経験の無い車種のチャンバーをゼロから製作するとなると相当な試作とテストを繰り返さなければ、満足な物は作れないでしょう。そういう決まっていない試作などの期間や費用はお約束できるものではないということが理由です。
今回のDT125は全く経験ありませんでしたが、製作できる可能性があったことと、こういう依頼に対応できないと、弊社の存在意義も無いと考えましたので、お引き受けすることにしました。
ワンオフなど安易に引き受けるものではないことを思い知らされる例でした。
DT125といえば水冷エンジンのチャンバーしか経験が無かったのですが、このマシンは空冷エンジンでした。初期型は78年ですがこれは後期型の80年モデルのようです。
依頼内容はRZ125チャンバーのスペックで作りたいということだったのですが、ボア、ストロークが56×50で同じなので使えると思ったのですが駄目でした。ノーマルチャンバーの寸法とRZ用が違い過ぎて、おそらくパワーダウンするだろうと予測したからです。
では空冷エンジンのレーサー用ということで77CR125が56×50で同じボア、ストロークなので使えるのではないかと試作に取りかかったのでした。
これが77CR125スペックですが、試乗してみて落胆しました。
全体的にトルク不足で高速も伸びない、ノーマルより全然走らない失敗作でした。
カタログ値だけの性能比較ですがDTは13PS/7500rpmに対して77CRは22PS/10000rpmということで、同じボア、ストロークでも性能が格段に違うということ。ポート形状やピストン形状など他の要素が大きく違っているためにチャンバー形状も違ってくるということを物語っています。
当時のDTと同じ鋳造型で製造されている80年式YZ125も同じボア、ストロークですが、26.5PS/11000rpmという高回転高出力型の特性を持ちます。一般市販車のDTの性能が違うのは公道での乗りやすさや安全性を重視した結果と考えられますので、やはりノーマルチャンバーをベースに作らなければならないということです。
ノーマルチャンバーは膨張部が2重構造になっていますので、外形寸法からは内部の寸法が測れません。
ストレート部とコンバージェント(収束)コーンは125クラスの過去データーから妥当な寸法を導き出し、推測して決めました。
ようやくワンオフ製作に掛かることができます。
テールパイプがモノクロスサスのショックとクリーナーボックスの狭い隙間をクネクネと曲がって通してあります。こういう部分は実車がないと製作不可能です。
サイレンサーも頼まれましたのでレトロな雰囲気のオールアルミで仕上げました。
試乗してみましたら、ノーマル同様の特性で5000rpmから8000rpmまでパワーバンドが広がる乗りやすいものにできました。
8000rpmからレッドゾーンなので、レーサーのように高回転で回す必要がないエンジンです。
32年前のオートバイなので部品も廃番になっています。壊さないように走り続けていただきたいと思います。
レストア界の最高権威、小林さんから溶接肉盛りを頼まれたケースカバー。
左ケースと思いますが、車種が分らない私が質問しましたら、ホンダSAだとおっしゃいました。1955年製の同車種ですが、最近まで実動で、イタリアで開催された2000kmのラリーを完走して年代別クラスで入賞したマシンだそうです。
ヨーロッパの旧車レースは日本とは比較にならない人気とレベルの高さが予想されます。
自分を育ててもらった会社のマシンですから、恥ずかしながら調べてみましたら、これがホンダの2輪車の歴史上重要な役割を担ったマシンであることがわかりました。
ホンダコレクションホールの展示車画像から拝借しました。
たしかにこの車両の左ケースが同じ形状を呈しています。
これがホンダ初の4ストエンジン、OHC単気筒250ccです。
本田宗一郎さん直々の設計で、夢の4ストロークエンジンが完成したので、ドリームという車名を与えた最初のマシンです。
製造された1955年にレースに出場しています。日本にサーキットが無かった時代で
7月に第3回富士登山レースで250ccクラス優勝。11月の第1回浅間火山レースで250ccクラス2位入賞という快挙。因みにこのレースの優勝はライラックに乗る伝説のレーサー伊藤史郎でした。
修理内容は、オイルドレンに亀裂が発生したため溶接肉盛りをすることです。
古いダイキャストですから表面を少し削って地金を出す必要があります。
酸化皮膜が溶接不良を引き起こすためです。アルミの溶接は交流TIGを使いますが、交流は極性が+ー交互に流れる高周波です。+イオンを衝突させ酸化皮膜を除去しながらー電子でアルミを溶かします。この酸化皮膜が強固な場合、除去できずに上手く溶けてくれないため、予め削っておくことが必要です。
内側もこの通り一皮剥いて、浸み込んだオイルの脱脂も行います。
ネジ穴の内側から溶かすように溶接棒で埋めてしまいます。
ここに新たなネジ穴とボルト座面を加工するのですが、私の仕事はここまで
続きは小林さんのレストア工房の加工機で行います。
サンドブラストで全体を美しく仕上げて、消耗部品も新品交換して組み上げますので、新車同様のコンディションになるでしょう。
小林さんは、ホンダのワークスレーサー、ダブルプロリンクや2気筒RCなどの開発を勤め、オートマチックRC時代のHRC監督でしたが、その後、会社命令でコレクションホールの立ち上げを任され、茂木の展示車両は同氏の作品であります。
英国バーミンガムのモーターサイクルミュージアムも見た事がありますが、展示台数は多いですが、旧車のコンディションは悪かったと思います。それに比べて、茂木のコレクションホールは全車動態保存で外観も新車同様、F1やMotoGPの歴代チャンピオンマシンも保有していることで、間違いなく世界一の2輪4輪博物館であると同時にホンダの偉業を実物で感じ取れる、後世に伝えたい異空間であることを申し上げておきます。
およそ45年くらい前に製造された車両でしょうか。これは、CSというロードスポーツタイプですが、これと同形式のエンジンを搭載したCLというスクランブラータイプが私の実家にありました。
CL90はオヤジがスクランブルやるために買ったものではなく、会社に通勤するための実用車だったのです。母親は私が8才のときに亡くなっていましたが、記憶に残っていることがあります。
当時、父親は自動車は所有していなかったので、夫婦で買い物に出掛けるときは、オートバイで2人乗りのスタイルでした。まだヘルメット着用は義務でなかったですが、父親はシールド付きハーフキャップ被って、ジャンバーにスラックス、革靴という真面目な服装で乗っていて、母親は頭にスカーフを巻いて、ロングコートの下はスカートでタンデムシートに跨り、ヒールの踵をステップに引っ掛けて乗っかっていました。要するにお洒落着のままオートバイに乗って出かけていたのですね。そんな母親を見て「お母さんは風呂敷被っとった」と父親は言っていました。 40年以上前の話です。
その後、通勤車は自動車に代わったのでCL90は置きっ放しになっていました。私が中学2年になったころ単車に乗りたくて、乗りたくて我慢できずに、親が寝静まったころ、こっそりCL90を持ち出して乗り回すようになりました。クラッチもギヤチェンジも知りません。乗り方教える先生もいません。中学生がたった一人で真夜中の山道で、ライトを頼りに練習していました。真冬で寒かったので、ジャンバーの下に新聞紙を入れて真っ暗な道路を疾走しては、親に気づかれないように返しておく日々が続きました。悪いことは続かないもので、運転に慣れたころに国道を走って遠出したところで警察に捕まって、バレてしまいました。13才のころですから少年法で刑罰はありませんでしたが、夜の監視が厳しくなってしまいました。モトクロス場では13才どころか10才以下でも堂々と単車に乗れるのに、私らが子供のころの環境では非行の元としか見られていませんでした。早く就職して自由に単車に乗ってやると、強く思ったものでした。
このオートバイを見てそんな昔のことを懐かしく思うのですが、今こうやって現役で走っていることが羨ましく感じます。あの思い出のCL90は、私の非行が元で、処分されてしまいましたから。
頼まれたのはメガホンのマフラーですが、レーシング仕様なので消音器は入っていません。浅間火山レースを彷彿される直管です。長さとテーパーの角度はノーマルのマフラーの中身を参考に最適寸法を推測して製作しました。成績を全く気にしない楽しみのためのレース仕様です。
震災があって3月の走行会が中止になってしまって、預かっていたK125が3ヶ月経って、ようやくチャンバー製作着手することになりました。
チャンバーに取り掛かる前に、サーキット走行のためセンタースタンドを外す必要がありますが
フレームを貫通しているシャフトが中で曲がっているのか、全く抜けてこないためスタンド外し不可能でした。
やむを得ず、酸素で溶断しました。
シャフトの生材使用はやめましょう。クロームモリブデン鋼にしましょう。
代わりにレーシングスタンドを作ってから作業開始です。
上がノーマルのマフラー。
2ストシングルなのですが、2個の排気ポートにそれぞれ独立したエキパイということで2本マフラーです。
下が製作したチャンバーとサイレンサー。
エキパイとチャンバーは溶接でワンピースです。
ノーマルは、ダイバージェント(拡散)もコンバージェント(収束)もありません。筒の中に仕切り板があって、反射を起こす構造で、仕切り板の位置を測ってチャンバーの諸元を推定しました。この置き換えは、あまり経験がありませんので、出来上がりの性能が楽しみです。
オーナーが取り付けてあったステップブラケットもチャンバーのレイアウトの邪魔になるので移設させていただいて、スッキリとストレートチャンバーに決めました。
キックアームは始動時にブレーキペダルにぶつかるので、可倒式に交換するべきと思います。
12Vバッテリーつないで、キック始動してみました。暖まっていなくてもアイドリングは安定していて、分離給油のためかワイドオープンにすると白煙がものすごい。回転はストレスなく吹け上がってくるので、走行は問題なさそうです。後はサーキットでキャブセッティングということですが、ここから先はオーナーのお楽しみということで、お引き渡しです。
スズキRMの前のモデルはTMという名称でした。昭和38年生まれの私でさえ乗ったことがありません。
エンジンや車体はほぼハスラー250ではないかと思います。ハスラー90は持ってましたけど、何処へやってしまったかさえ覚えていない遠い昔のことになってしまいました。
さて今回の製作依頼はTM250のチャンバーです。下に置かれた純正品が老朽化のため新作することになりました。
当時のレーサーはサイレンサーもありませんが、テールパイプにスプリングフックは付いているので
オプションでサイレンサーを装着できたのでしょう。
潰れたノーマルチャンバーを元に採寸して製作したニューチャンバー。
口元フランジも絶版ということで、新作し、ニューチャンバーとセットになります。
採寸した諸元はこのようにガバリを作成して鉄板に罫書いて製作します。
レストア中のこのマシン、クランクケースもOH中なので内部が確認できますが
これはプライマリーキックではないことが分ります。
最近のオートバイは全てプライマリーが当たり前になっていて、ギヤが入っていてもクラッチを切ってエンジン始動ができる構造になっています。
それはキックギヤとクラッチアウターのギヤの間にプライマリーギヤが存在してメインシャフトの連結をクラッチで解除しながらクランクギヤを回せることで、ギヤが入っていても始動できるわけです。
しかしTMにはプライマリーギヤの軸穴が存在しないことが右ケースを見れば分ります。
キックギヤとカウンターシャフトのギヤが直結の構造です。
即ち、ギヤをニュートラルにしてからキック始動できたということです。
ギヤが入っていれば押しがけはできますから、ロードレースでも押しがけスタートが主流でした。
モトクロスでは、今のようなスターティングマシンは無く、エンジンを止めた状態でオフィシャルの日章旗を振る合図でキックスタートでレースしていました。
当然、右足でキックして、左足でギヤを入れてスタートするわけですから、予めギヤをいれてキックできるプライマリー車の方がスタートが優位だったわけです。
古いマシンを乗っている人を見て、「新型のマシンの方がいいよね」という人がいますが
これは古い名作映画を観たり、懐かしい歌謡曲を聴いたりするのと似ていると思うのです。
新型が性能がいいのは当たり前、いつまでも自分の青春時代のマシンを楽しんでいたいという欲求があることを非常に理解できます。
このダウンチャンバーのリバイバルは口元フランジとサイレンサーも新作で3台分同時に、しかも前金で依頼されていますので、他の仕掛かり業務も含めて8月中に急な依頼がありましてもお引き受けできませんのでご了承ください。
そのお客さんは始め電話で場所を確認してからスポーツカー(ロータス)に乗って現れました。
怪しげな工場の下見をしてから注文しようと考えたそうです。
以前、別の業者に品物を注文したがトラブルになってしまい信用できなくなったらしく、製作を依頼するとき慎重にならざるを得なくなったそうです。
それなら大丈夫、信念の仕事をやり通す弊社を選んだあなたは大正解。
必ずや満足させてあげられるでしょう。
最初、装着されていたチャンバーも社外品だったのですが年式も古く錆びている上に素人のような溶接が割れてしまって何度も下手な補修を重ねた痕が見られました。
もちろん修理ではなく新品製作で排気漏れも解消、パワーモリモリのチャンバーがついたRD400がロータスのおじさんの通勤車として走り続けているそうです。