松山オートテックは愛媛県松山市の山中にあるMXコースで、県民の水瓶「石手川ダム」をさらに山奥へ進むと、瀬戸内海が広がる絶景の山の尾根の部分を切り崩したMX場が現れる。
ゴルフ場も隣接しているのでコースまでの道路は完全舗装された環境のよさ。当時のMXファンなら五明(ごみょう)という地名で知られている、そのコースは通称パチ台と呼ばれていて
コースの一番低い位置にスタートとフィニッシュジャンプがあり、高低差100mくらいの斜面を一気に上ってからパチンコ台のようにクネクネとバンクのついたタイトコーナーを曲がりながら下ってくるので
下からコースの状態が80%くらい見えるので観戦しやすいコースだった。
松の木の山林に黄色い山砂のコースは日本のMXコースの中でも一番美しかっただろう。
そしてカワサキ ダートクルニクルスの記事を読んでいて懐かしく思った。
チームグリーンの平井監督の話だったが、最初に育てたA級ライダーは中深迫正と菅原義広。
その前にチームグリーンとして成功したのがスーパーノービス調所伸一と鈴木南平だったことを
平井監督が語っている。
そして、その舞台が全日本四国大会の松山オートテック、83年のレースだった。
コースの一番高いストレートが終わった左コーナーの向こうは青い瀬戸内海が見えるはずだが
ライダーにはそんな景色は目に入らない、バンクのコーナーを立ち上がったら、菅生の大坂より長い下りジャンプが待っているからだ。
そのジャンプを最初に飛び出してきたのが、調所伸一と鈴木南平のカワサキだったわけだ。
私も鮮明に覚えている。現地には行っていないがライディングスポーツ誌の見開き2ページを飾った写真が、その場面だったからだ。
調所選手の逸話は、桶川のレースで優勝したあと、「フロントフォークがいつもと違う」と言ったので
フロントフォークをばらしたら、片方のフォークにオイルが入ってなかったという話。
片方のオイルがなくても勝てるくらい速かったということだ。
鈴木選手はバイクランドジャパンの御子息、木更津サーキット(イーストバレー)や飯倉スポーツランドも経営していた、あの鈴木さんである。
2人は早くMXに見切りをつけて別の道に進んだと聞いたが、ワークスライダー養成チームとしてのチームグリーンの活躍の原点は彼らだったに違いない。
ハンチング帽にサングラス姿の平井監督は全日本MXの名物となっていた。そんな平井監督と私は一言だけ会話したことがある。
86年の国際B級ゼッケン2はクレイジー安藤さんだ。
安藤さんは石神覚さんのポイントワンに所属していたころから狭山レーシングと縁があり、
カワサキに乗り換えてジュニアライダースに所属してからも、狭山のトラックで全日本遠征していた。
菅生の全日本のときB級の予選でサインエリアにいたとき、平井監督が私に「安藤は予選通過したかー」と尋ねられた。「ハイ、通過しました!」 たったこれだけだが忘れられない。
国際Aは私にとって神様だ、そして監督は神様を育てている創造神なのだ。
安藤さんは前年、カワサキに乗り換えて鈴鹿で4位に入った。申請すればA級昇格できたのだが
「申請A級はインチキだ」と言って翌年、優勝するつもりでいたのに成績不振で折れてしまったのだ。
平井監督はカワサキに乗って速かった安藤さんにも期待をかけていたのだろう。
話は逸れてしまったが
松山オートテックは85年、先輩の井本さんがB級ゼッケン9の年に全日本四国大会として最後のレースを開催した。
その日のマーシャルは四国のトップライダー三原達夫。
国際Bの公式練習は三原選手と井本選手の一騎打ちだった。
四国選手権のトップライダーの松山でのスピードを見せ付けたいという思いと
一桁ゼッケンが田舎B級に負けてはいけないというプライドが、走りに表れていた。
そして、三原選手の御子息は後にチームグリーンへ入るほど成長し、親の意思を継いだと思われる。
その選手の名前は三原拓也、四国で8番目の国際A級ライダーとなった。
A級250でヒート優勝したのがMX界1のイケメン立脇三樹夫選手だったのが印象的だった。
その後はゴルフ場建設予定地になってしまい閉鎖したと聞いている。