1979

40代、50代を過ぎたオッサンが集まると昔話を始める習性があることに気付きました。私もその一員であることに間違いないです。

新しい世界には不安な要素(エネルギー問題、自然災害、増税、高齢化、・・・)が山積ですが、過去の思い出は自分を苦しめることもなく、愉快な気持ちにさせてくれることが昔話をする要因でないかと思います。

1979年、私は15歳でした。私が生まれる前年に創立された新居浜高専に第16期生として入学しました。金属工学科、空手道部所属、入学の動機は幾つかあって、専門課程を学べる、全寮制あること、免許取得OK、空手道部あり、でした。2年生に進級したころ、通学生用の駐輪場にボロい自転車が同じ場所に毎日置いてあるのを見て、てっきり卒業生がいらない自転車を置いていったのだろうと思い、勝手に取り込んで乗り回していました。

1週間くらいたったでしょうか、その自転車を寮の前で乗っていたら、上級生に呼び止められ「それは俺の自転車だ!」といって取り返していきました。そのとき初めて自分の過ちに気づきましたが、既におそかったようです。まもなく、同級生から「指導寮生の家田さんが呼んでいる」と告げられて家田さんの部屋へ行きました。

指導寮生とは、下級生の朝の点呼や生活態度の監視を任される代わりに広い個室を与えられた上級生のことです。家田さんは、学生会長であり、空手の極真会館新居浜支部道場の師範代ということも知っていましたので、自転車泥棒の制裁として半殺しにされるのを覚悟して部屋のドアをノックしました。

「入れー」という声がして部屋に入ると、ベンチプレスでバーベルを上げたまま、こちらに目線を向けることなくトレーニングする家田さんがいました。そのままの姿勢で「何で自転車を盗んだ?」迫力のある声に圧倒されながら「す、捨ててあると思いました・・・」明らかに怯えた声で答えるのが精一杯でした。

そして、静かにバーベルを置いて立ち上がり私の正面に来て、正拳が唸りを上げて顔面で寸止めされました。「今度やったら顔潰すぞ」という一言だけで退室を命じられました。学生会長という立場上、体罰という行為を控えたということでしょうが、私は真剣に反省するのに充分なインパクトでした。

高専の空手道部は松涛館流という型を重んずる流派でしたが、組手は寸止めルールなので、実戦空手を習いたいと思い極真会館新居浜支部へ練習にいきました。そして指導員をされていた家田さんから、事件のことは無かったことのように親切に空手のアドバイスをいただきました。本当に強い人は技術だけでなく人間性も磨かれているものだと実感した瞬間でした。

この新居浜支部道場を開設した芦原会館の総裁、芦原先生に直接お会いしたことはありませんが、金属工学科の同級生で山田ユーゾーという男は直接指導を受けたそうで、新居浜支部道場の物件探しに同行していました。芦原先生はヘビースモーカーでクルマの中でも常にタバコを吸っていたそうで、ユーゾー氏が「そんなにタバコを吸って、大丈夫ですか?」と尋ねたら芦原先生は「試合は3秒で終わるからスタミナは必要ないんだ」という先生ならではの答えが帰ってきたそうです。そしてユーゾー氏は高専は3年で中退して大阪でキックボクサーの道へ進みました。

当時青少年に影響を与えた漫画空手バカ一代の第2部、世界制覇編の作者、影丸穣也さんが先日亡くなられたということをニュースで知りました。私たちに生きる勇気と力を与えてくれた、原作のモデルになった芦原先生、漫画の作者影丸先生にご冥福をお祈りいたします。                    押忍

 

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極真会館の道場は練習のやりがいはあったのですが、月謝が払えず辞めてしまいました。そのころ、新聞配達のアルバイトはやっていましたが、単車の購入資金に消えてしまっていたのでした。

もうひとつ1979といえば、大事なものがありました。

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この人たち当時20歳そこそこで、このような作品をレコード制作して売り出していたんですね。すごい成熟した人たちでした。いまではありえないメンバーの競演なので語り継いでいきたいです。

 

 

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