A級ライダー製造所、モトクロス版虎の穴、マウンテンライダーズ主催のトランズジャパンモトクロスはトランズAMAというスーパークロスシリーズ戦に準えた名称です。
コース作りもライダースパーク生駒に主催者自ら行うという、今のモトクロス界とは比較にならない情熱を感じられる大会でした。
私は関東選デビューの年で、このレースは観てなかったので、有難く共有させていただきました。
私をモトクロスの世界に引きずり込むきっかけを作った人
78年125cc世界チャンピオン渡辺明
この年全日本250ccにフル参戦しており
彼の現役時代の走っている映像は貴重です。
このときすでに30歳だそうなので24歳のヤングチャンピオンだったのですね。
28xは125ccに乗る怪物、東福寺保雄
動画中に収録されたチビッコライダー芹沢太麻樹にライディングのコーチをしていた時期。
初めて行った笹目橋のコースで芹沢兄弟の練習を見たとき、お父さんが竹刀を持ってコーチしているのを発見して関東モトクロスのレベルの高い理由を知りました。
初めて練習で教えてもらったA級ライダーは唐沢さんです。
当時、南大塚に住んでおられて
川島町の山田うどんで待ち合わせて桶川へ練習に行きました。
あのとき教えていただいたアクセルワークを今でも忘れずに走っております。
アメリカ帰りの光安鉄美
黄色いウエアの光安さんも貴重ですね。
狭山品管の田中主任(当時)がアメリカ出張でスーパークロスを観戦したとき、光安が走っていて、「アメリカンが飛んでいるキャメルジャンプを光安は飛んでなかった」とか朝礼で報告されていたのを思いだしました。
光安さんはスーパークロス好きじゃなかったみたいです。
トップライダーの殆どが転倒しています。
4xは後に川島町でモトクロスショップを営むあの人の走っている貴重な映像です。
千里スポーツクラブ所属
このあと杉尾選手に轢かれそうになります。
これは2回転倒しても6位入賞した6x
伊田井佐夫さん
後ろは27 馬場善人、A級1年生でしたがアメリカン仕込みのジャンプは日本人最高でした。
チームメイトの武田久男と狭山へ来てCRの耐久ライダーやっておられましたが
お二人共すでに故人であります。
それでは本編の動画をお楽しみください。
ヒートレースで東福寺選手も前転を喫します。
追いついてきたB級チャンピオン中深迫をコカシながら抜いていくシーンが4:12あたりで見られます。
非常に闘争心のある走りですが、翌年渡米してジム・ホーリーに習った土佐重量の岡崎選手が「練習で競り合ったとき、伊田さんならコノヤローってなるんですけど東福寺さんは怖い」と言っていたのを思い出しました。
やはり、ヤルかヤラれるかの攻防がなければレースとは言えないと思います。
いつでもこんなバトルが観られるならお客さんももっと増えるんじゃないでしょうか。
このように日本のモトクロスも連続ジャンプが飛べなければレースにならないような状況に対応するため、リヤサスのリンク戦争が勃発したのがこの時期です。
これまでのサスはギャップの追従性を重視し、ショックを吸収するリンクレシオ(レバー比)を開発してきましたが、CRにおいては85年から方向性をガラリと一変したプロリンクが開発されたのです。
それはコブを利用してより反発して飛び上がるようにリンクが設計されていました。
その考え方は87年まで継続されますが、88年にデルタリンクに変更されて新しいサスペンションの時代に移行していったのであります。