実家伊予西条市小松町にて四十九日法要と納骨をして参りました。
往路はいつも明石海峡大橋です。
天気が良くて美しい景色が好きですね。
支柱の高さと吊橋の長さが世界一だそうです。
世界に誇れる日本の建築技術です。
四国に最も早く上陸できるルートということもあるのですが、山陽道より高松道を走る方が瀬戸内海を臨む絶景が楽しめるので
断然こちらがお勧めです。
復路は本州に早く上陸できる、しまなみ海道か瀬戸中央道になります。
淡路島で発見した森実運輸のトラック。
郷土愛を感じますね。
4トンのパネル全面ラッピングですよ。
それにしても大きな印刷ですね。
全塗装の時代は過去のものになってしまいましたね。
納骨の前日に到着してお墓掃除をしておきました。
お墓を見るといろいろなことが思い起こされます。
母親が亡くなった昭和46年(享年39)から
5年後に父親が建立しましたが
当時46才でしたから、大変お金に苦労したのでしょう。5年間貯めてから、しかも二人の息子が進学の時期です。
こんなに立派なお墓を建てたのも、霊票を見て分かるように、後に入る人に負担が掛からないように余白が空けてあることで、納得できます。
気が付いたら私も年を取ってしまって、何一つお返しもできないまま旅立たれてしまいましたが
お二人の間に生まれてこられて良かったと思います。そうでなければ今の自分がいないのですから。せめて遺言に書かれたことに背かないように生きていくことが使命だと思っています。
法要と同時に、「かんにち」という、この地方特有の風習も行いました。
死者の正月に当たるもので、墓の前で餅を炙って親戚の者がちぎって食べるだけなのですが、
その由来は、ここは戦国時代、高知の長曽我部氏が侵攻してきて、地元の城主黒川氏と戦闘を行った場所です。
大勢の両軍の武士が斬り合って亡くなった場所ですから、その武士たちの供養の方法が現代まで引き継がれてきたということです。
家の用事を急いで済ませて帰り道、どうしても立ち寄ってみたかった場所を発見しました。
R11加茂川を渡るときに土手に立っているのが見える看板です。
学生時代から看板は見たことありましたが
書かれている意味が分からなかったのです。
所沢で零式艦上戦闘機を見てから、いろいろ調べていたら、最初の神風特攻隊の隊員のことが分かって
その指揮官が地元西条出身の若者であったことを知り、いつかは慰霊碑を訪れたいと思ったことが叶いました。
これが楢本神社に建立された敷島隊五名の遺品を埋葬した忠魂碑です。
傍らの砲弾は実際に搭載した爆弾と同型のものらしいです。
第一航空艦隊司令長官大西滝次郎中将(終戦時自決)の命令により
昭和19年10月20日編成
同10月25日出撃
敵護衛空母セント・ローに命中し、弾薬庫爆破により沈没せしめた日を記念日として毎年、この記念館前で慰霊祭が行われているそうです。
境内にかかる隊員の紹介文
隊長の関行男中佐は最初の作戦命令に即答しなかったといいます。
「私なら250キロ爆弾を何度でも命中させられますが、それでは駄目でしょうか」
上官はいいました。
「駄目だ、最初の攻撃に成功しなければ後に続く者が躊躇してしまう。この作戦を成功させられるのは君しかいないのだ」
しかし、成功するということは確実に死ぬということを意味します。
一晩考えた関中佐は決心したといいます。
そしてこんな言葉を残されました。
「私のような優秀なパイロットを死なせなければならない、この国は負けることは確実だろう。しかし死んで作戦の無意味さを軍部に分からせることが戦争の終結を早めることになるならば、国民や子孫の平和の実現のため犠牲になることを決意した。」
恐るべき勇気と責任感をもった男だと思います。それに従った他の隊員たちも同様です。
勝てる見込みの無い戦いを仕掛けたのが元で、後に引けなくなったうえ、二度目の過ちの始まりだったわけですが
戦没者を軍神として崇め奉ることに、賛否両論だと思います。
だから私の主観を言わせていただくと、最近のリアルな戦争映画が公開されていく目的として、より事実を風化させないで後世に伝承していくことが平和解決の道だと思っています。
戦争体験者は日に日に失われていきます。
上記の大黒繫男隊員は父親の通った新居浜工業高校の先輩であり、大正10年生まれの関中佐と同年代の叔父はシベリアに9年間抑留されて帰還しましたが、まだ存命であります。
残された者は史実を無きものにすることなく伝承することが、敷島隊のほか数千人の無駄死にした大正生まれの若者たちが意味のあることにできる唯一の方法だと考えております。
東大医学部初代教授
真鍋嘉一郎氏の生家が楢本神社境内にあったのですね。
知らなかった。
西条市って重要人物が多いですね。
国鉄総裁で新幹線の父と呼ばれた十河信二さんは西条市長を勤めたりしましたし。
手前は東郷平八郎率いる戦艦三笠がバルチック艦隊を撃破した主砲砲弾です。
三笠は大正15年に廃艦されて、現在は横須賀港に展示されているようです。
後ろの大きいのは戦艦大和主砲砲弾
全長1.95メートル
重量1470キロ
装薬量330キロ
初速780メートル毎秒
最大射程42000メートル
史上最大最強の砲弾だそうです。
明治時代から戦艦作れる造船技術が日本にあったなんて信じられません。
製鉄所が既にあって、溶接はガスでしょうかアークでしょうか。物作り日本の力が皮肉にも、人殺し兵器のために発達してきたことも忘れてはなりませんね。
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